いづみ屋

福島県福島市に住んでいる普通の会社員の日記です。 趣味の音楽などの創作活動や仕事の事などを書いています。

2012年10月

やれんのかぁVol5

昨日27日は郡山Free Way JamさんにておこなわれたBSTさん主催のイベント[やれんのかぁ]にいってきました。

Phan★Tomさんバンドのギタリスト[シャーク]氏の付き人としてライブを見に行ったのですけど、人生初の当てぶりというステージでこれはこれでなかなか難しかったようです。でも結構たのしんでやれたそうです。次回もあるかな?あったらまた面白そうだそうです。

どうも頭痛もちらしく、打ち上げであんまり飲めなかったようで、今後からバファリン持参しないといけません。せっかくたくさんの人が集まる席で挨拶周りにもろくにできず、次回機会があればもっと愛想よくお付き合いしたいと思ってたりします。

今回出演するバンドさんに活動休止や解散するバンドさんもあったようで、案の定KLADLEの解散の件ってのも話にでるわけですけど、時期も時期なのでしょうがないですよね。

終わった事よりも未来に向かって。元KLADLEのメンバーも早速次の未来へと進んでいるようです。色々あって一人になったけれども、それは自分が自主的な理由で決めた道ですから、存分に楽しまないといけません。

今後もコピーバンドでセッション的に活動したり、オリジナルもどんどん発表出来たら良いと思っています。ネットも有効に利用したいですね。

KLADLE解散

この度大変勝手ではありますが私は一身上の都合により所属バンド「KLADLE」を脱退いたしました。その結果バンドは解散となります。お世話になった方々にお礼を申し上げます。

所詮社会人の趣味の活動ですから、メンバーのことも全員人間的に好きですし、ゆっくりとでも続けるつもりではいたのですが、趣味であるとか全く関係ない所の、音楽について、またはバンドという集団及びその活動に参加することの意味、思想哲学のような部分において、絶対にバンドを脱退しなければならない確固たる理由に行き着き、こういう結論に達しました。

なんだか難しい事ですがつまり広い意味での「音楽性の違い」ってやつです。
これ以上輝けないとかそういうアレです。
僕はいい加減で適当な人間ですがこういうことに対しては大真面目なのです。

これまで一緒に活動してきてくれたバンドメンバーには感謝しています。そしてこのバンドで出来た縁や思い出はバンドがなくなっても大切にしていければと思っています。

作ってみた

最近は本ばかり読んでいましたが、とうとう40冊くらいになりました。
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地震がおきたら大変!ってことで。本棚を作りました。

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よしよし、まだまだ下にはいるぞ。目指せ100冊!ギターも置いときます。
ぬいぐるみがいっぱいついてますが女子コーセーが住んでいるわけではありません。
親父の部屋です。

現在40冊。100冊読んだら再び音楽を作ったり色々はじめようと思っています。色々な言葉に触れると、そこからまた新しい創造が生まれる予感にワクワクします。





凝り性

ブログの更新が人一倍多い。これは単純に文章を書くというのが自分は好きだからだ。好きな事に徹底してストイックなのはどの分野でも一緒だ。

ときどき自分が集団から浮いているような寂しさを感じる事がある。それは生まれたときから現在に至るまで一緒だ。自分は共同体の一員としては不適格なのではないか?という不安。

それは子供の頃からそうだった。そして母は自分を立派な普通の人間に育てようとした。地元の大学に行き、公務員のような硬い職業につき、親孝行をして欲しいと言われ、期待もされた。

毎朝決まった時間に出社して、組織と法を守り、税金を収める。やがて所帯を持ち妻子を得て、老後もなんとかなりそうな目安はある。自分は普通を手に入れたのだ。とりあえず両親も安心である。長男の面目もたったであろう。

が、そうなってみてわかったことがある。どうやら自分は変わり者で、普通である自分は意図的に演じている人間であったようだ。創作に没頭する自分の熱の入れ方は半端でない。相当の凝り性であるのだ。


音楽の科学

音楽とは何か?とかいう漠然とした事を考える。

あらゆる現象は、陰と陽、男と女、光と影、プラスとマイナス、借り方と貸方、と相反する者がバランスをとれて存在しているように思える。どちらかがバランスを崩せばそれは良くない。

音楽というのもまた、科学と文学のバランスによってなりたつもののように思える。

音楽の科学とは、音という自然現象そのものだったり、それが人の耳にどう聞こえるかという事、それを体系的にまとめた音楽理論、和声学や音階などの話、文章化、図式化することを目的とした楽典などの知識、楽器の演奏方法などの技術論であるとする。

音楽の文学とは、音楽の科学によってどのような表現をするか?という文学とか哲学とか芸術的な問題のように思われる。かなり抽象的で、どうにももやもやした実態がない。まるで「魍魎の匣」でいう魍魎のようだ。

このように、音楽を「科学」と「文学」に分割して考える事ができたのは、京極夏彦の小説「姑獲鳥の夏」を読んだ事がきっかけなのだが、実はその前から色々考えていた。自分にとって、音楽をやっていく上で足りないものがあるとすれば、それはなんだろう?という謎である。

結論から言うと、自分の音楽に足りないものは恐らく文学である。もっとわかりやすく言うと、音楽における文学的要素は、「目的」であり、科学的要素は「手段」と置き換えることができる。

「目的」と「手段」は、その関係性がバランスよくまとまって始めて事を成すことができる。

自分に置き換えれば、楽器の演奏技術、作詞、作曲、編曲をするための理論、技術に関する部分や機材の取り扱い方について、最低限の知識を持っている。ところが、それをもって何を表現したいかという目的を持たない。

だからこれまで所属するバンドの音楽性、メンバーの嗜好性や歌詞にたいして音楽をつけることで、自分の役割を果たすことができたが、「目的」を自分で考えねばならない必要性が出てきたとき、どうにもならなくなってしまったのではないだろうか?

これまで、自分が音楽において影響を受けたと思われる人達についてすら、自分は歌詞を見ることはまったくなかった。歌詞など英語でも日本語でも北朝鮮語でもなんでもよかったのだ。自分にとってはメロディラインの構成がいかに素晴らしいか?気持ちいいかだけが音楽の全てであったのだ。

もしも自分が音楽に情緒性、文学性というものを求めていたならば、恐らくミスターチルドレンの歌に涙し、周囲の求めるようにボーカリストになったであろう。元々ギタリストなど過剰人員でもあるのだ。

ボーカリストは文学性がなくてはならない。歌を正確な音程で歌えなくても、顔が多少まずくても、熱い思い?とかいう曖昧な情緒性を相手に与えることさえできれば、りっぱなボーカリストとなれる。下手でも味になるのだ。それが文学性をもつまでのレベルに昇華させればよい。

だが楽器の演奏や作詞、作曲は、熱い思いだけではどうにもならない。熱い思いを実体化する最低限の「手段」つまり音楽の科学性が必要なのだ。

自分が悩むべきことは、作詞作曲の仕方がわからないのではなく、何を作ったらいいかわからないという問題であった。これは自分に文学性がないからだ。という原因がわかった。つまり難しい理論書を見て勉強しても、機材を最新のものに変えようとも、一向に改善はしない。現時点では十分である。この段階になると才能というやつが影響を及ぼす。幸い自分は作りたいものが沢山あるので、まだ大丈夫である。

作曲はともかく、作詞は文学性の問題だと誤解する人間がいる。確かに内容は大切だが、音楽である以上はかならず最低限の科学が必要である。字数や構成、発音などについて考慮する必要があり、それを全く無視した文章は歌詞ではなくポエムである。ボーカリストの音域を無視したメロディは歌ではなく音階であり、それも科学的なミスである。

自分の事を、技工に走っていると称した事がある。これは何も自分が超絶テクニックをもっているとかいう意味ではない。文学性がないため、技工ありきの曲しか作れないという欠点を指していっている。このリフがどうこう、リズムがどうこう。スケールがどうこう。という一般の人にはわからない難しい事でしか音楽というのを表現できない事が問題なのだ。

文学と科学、目的と手段、これらを履き違えると大変惨めな結果となる。音楽における文学と科学のバランスの問題は、目的と手段という形に変わってバンドやユニットといったグループの活動においても影響がある。

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